松井須磨子辞典
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松井須磨子
マグダ役の松井須磨子
(文芸協会第3回公演『故郷』)
松井須磨子(長野市出身、神楽坂で活動)は明治から大正時代に活躍した「日本初の歌う女優」です。
坪内逍遥主宰の文芸協会で、舞台『ハムレット』のオフィーリア役で女優デビューを果たし、舞台『人形の家』のノラ役で注目され、看板女優となりました。島村抱月と共に創立した芸術座では、1914年(大正3年)3月26日に帝国劇場で初演された舞台『復活』で、カチューシャ役の松井須磨子が歌唱した劇中歌『カチューシャの唄』が全国的に大ヒットし、「日本初の歌う女優」として知られるようになりました。翌年の舞台『その前夜』の劇中歌『ゴンドラの唄』も大正ロマンの代表曲として今日も愛されています。歌舞伎全盛の女優がいない時代に、努力で女優となった人物で、女優という女性の新しい職業を作った人物としても高く評価されています。
坪内逍遥主宰の文芸協会で、舞台『ハムレット』のオフィーリア役で女優デビューを果たし、舞台『人形の家』のノラ役で注目され、看板女優となりました。島村抱月と共に創立した芸術座では、1914年(大正3年)3月26日に帝国劇場で初演された舞台『復活』で、カチューシャ役の松井須磨子が歌唱した劇中歌『カチューシャの唄』が全国的に大ヒットし、「日本初の歌う女優」として知られるようになりました。翌年の舞台『その前夜』の劇中歌『ゴンドラの唄』も大正ロマンの代表曲として今日も愛されています。歌舞伎全盛の女優がいない時代に、努力で女優となった人物で、女優という女性の新しい職業を作った人物としても高く評価されています。
・短編アニメーション『カチューシャの誕生』
短編アニメーション『カチューシャの誕生』
(ナレーション:朱紫令真、監督:瀬尾 宙、製作:一般社団法人松井須磨子協会)
松井須磨子達の功績を分かりやすく学べる教育アニメーションです。
「カチューシャの唄生誕110年」である2024年3月26日を記念し、当協会が製作しました。
松井須磨子、アニメで親しみやすく ユーチューブで短編「カチューシャの誕生」公開
(2024年3月26日信濃毎日新聞)
(ナレーション:朱紫令真、監督:瀬尾 宙、製作:一般社団法人松井須磨子協会)
松井須磨子達の功績を分かりやすく学べる教育アニメーションです。
「カチューシャの唄生誕110年」である2024年3月26日を記念し、当協会が製作しました。
松井須磨子、アニメで親しみやすく ユーチューブで短編「カチューシャの誕生」公開
(2024年3月26日信濃毎日新聞)
・松井須磨子の墓所(新宿区指定文化財)
〒162-0851 東京都新宿区弁天町100 多聞院
松井須磨子の略歴 | |
1886年(明治19年)11月1日 | 長野県埴科郡松代町清野村(現:長野県長野市松代町清野)に小林正子として誕生。 |
1892年(明治25年) | 上田町(現:長野県上田市)の長谷川友助の養女となり、長谷川正子となる。 |
1901年(明治34年) | 養父・長谷川友助と実父・小林藤太が死去。 |
1902年(明治35年) | 上京し、麻布飯倉風月堂(姉の嫁ぎ先)に下宿しながら、戸板裁縫学校(現:戸板女子短期大学)に入学。 |
1903年(明治36年) | 戸板裁縫学校卒業後、木更津の鳥飼啓蔵と初婚するが、離縁と自殺未遂を経験。 |
1904年(明治37年) | 長谷川家菩提寺・大英寺(長野県埴科郡坂城町)で療養し、前沢誠助と出会う。 |
1907-1908年(明治40-41年) | 牛込高等演芸館で荒川重秀哲学博士が主宰するお伽芝居に出演。 |
1908年(明治41年) | 前沢誠助と再婚。 |
1909年(明治42年) | 坪内逍遥が主宰する文芸協会演劇研究所に入所。 |
1910年(明治43年) | 前沢誠助と離婚。 |
1911年(明治44年)5月 | 文芸協会第1回公演『ハムレット』(シェイクスピア作/坪内逍遥脚色/帝国劇場)オフィーリア(ヒロイン) |
1911年(明治44年)9月 | 『人形の家』(イプセン作/島村抱月脚色/文芸協会試演場)ノラ(主演) |
1911年(明治44年)11-12月 | 文芸協会第2回公演『人形の家』(イプセン作/島村抱月脚色/帝国劇場)ノラ(主演) |
1912年(明治45年)5月 | 文芸協会第3回公演『故郷』(ズーダーマン作/島村抱月脚色/有楽座)マグダ(主演) |
1913年(大正2年)7月 | 島村抱月と松井須磨子が芸術座を創立。 |
1913年(大正2年)9月 | 芸術座第1回公演『モンナ・ヴァンナ』(メーテルリンク作/島村抱月脚色/有楽座)モンナ・ヴァンナ(主演) |
1913年(大正2年)12月 | 『サロメ』(ワイルド作/中村吉蔵脚色/帝国劇場)サロメ(主演) |
1914年(大正3年)3月26日 | 芸術座第3回公演『復活』(トルストイ作/島村抱月再脚色/帝国劇場)カチューシャ(主演) |
1915年(大正4年)4月 | 芸術座第5回公演『その前夜』(ツルゲーネフ作/楠山正雄脚色/帝国劇場)エレーナ(主演) |
1918年(大正7年)11月5日 | 島村抱月がスペイン風邪により逝去(47歳没)。 |
1919年(大正8年)1月 | 芸術座第12回公演『カルメン』(メリメ作/川村花菱脚色/有楽座)カルメン(主演) |
1919年(大正8年)1月5日 | 松井須磨子が後追い心中により逝去(32歳没)。 |
島村抱月
島村抱月(島根県浜田市出身、神楽坂で活動)は明治から大正時代に活躍した日本近代演劇の父(演出家、劇団経営者)です。
東京専門学校文学科(現:早稲田大学文学部)を卒業後、同大講師を経て、オックスフォード大学及びベルリン大学に留学し、美学や心理学の研鑽を積みながら3年間で200本以上の作品を観劇します。帰国後に早稲田大学文学科教授に就任し、更に早大創設者・大隈重信前総理を会頭に迎え、坪内逍遥と文芸協会を創立しました。又、『早稲田大学校歌』発案者としても著明です。文芸協会脱退後、公私共にパートナーだった松井須磨子と芸術座を創立し、病死までの僅か5年半で、近代演劇を日本全国に広め、演劇を日本人にとって大変身近な存在にしました。
東京専門学校文学科(現:早稲田大学文学部)を卒業後、同大講師を経て、オックスフォード大学及びベルリン大学に留学し、美学や心理学の研鑽を積みながら3年間で200本以上の作品を観劇します。帰国後に早稲田大学文学科教授に就任し、更に早大創設者・大隈重信前総理を会頭に迎え、坪内逍遥と文芸協会を創立しました。又、『早稲田大学校歌』発案者としても著明です。文芸協会脱退後、公私共にパートナーだった松井須磨子と芸術座を創立し、病死までの僅か5年半で、近代演劇を日本全国に広め、演劇を日本人にとって大変身近な存在にしました。
・都立雑司ヶ谷霊園・島村抱月墓所の墓じまい問題
2022年11月5日撮影
都立雑司ヶ谷霊園・島村抱月墓所 命日墓参
2023年3月29日撮影
都立雑司ヶ谷霊園・島村抱月墓所 墓じまい後
2022年末に発生した「都立雑司ヶ谷霊園・島村抱月墓所の墓じまい問題」による社会的な混乱を、多くの方々のご協力を賜りながら、当協会代表理事・堀川健仁が解決に導きました。
【note】都立雑司ヶ谷霊園・島村抱月墓所の墓じまい①
【note】都立雑司ヶ谷霊園・島村抱月墓所の墓じまい②
【note】都立雑司ヶ谷霊園・島村抱月墓所の墓じまい③
【東京新聞 2023/6/25】
都立霊園の著名人の墓が消えた!?理由を探ったら現代の「墓じまい」事情が見えてきた
【読売新聞 2023/11/15】
「近代演劇の父」島村抱月の墓石、「墓じまい」で姿消す…関係者が「文学碑の側面ある」と捜索
【note】都立雑司ヶ谷霊園・島村抱月墓所の墓じまい①
【note】都立雑司ヶ谷霊園・島村抱月墓所の墓じまい②
【note】都立雑司ヶ谷霊園・島村抱月墓所の墓じまい③
【東京新聞 2023/6/25】
都立霊園の著名人の墓が消えた!?理由を探ったら現代の「墓じまい」事情が見えてきた
【読売新聞 2023/11/15】
「近代演劇の父」島村抱月の墓石、「墓じまい」で姿消す…関係者が「文学碑の側面ある」と捜索
・島村抱月の墓所(浜田市指定文化財)
〒697-0303 島根県浜田市金城町久佐イ360-1 浄光寺
芸術座(旧字:藝術座)
カチューシャ役の松井須磨子とネフリュードフ役の横川唯治
(芸術座第3回公演『復活』)
芸術座は1913年(大正2年)に島村抱月と松井須磨子が神楽坂で創立した劇団です。
1914年(大正3年)3月26日に帝国劇場で初演した舞台『復活』が大ヒットし、カチューシャ役の松井須磨子が歌唱する劇中歌『カチューシャの唄』は日本初の流行歌として一世を風靡しました。翌年の舞台『その前夜』の劇中歌『ゴンドラの唄』は、黒澤明監督の映画『生きる』の主題歌にも起用され、大正ロマンの代表曲として今日も愛されています。又、神楽坂に劇団本部兼小劇場として『芸術倶楽部』を建設し、演劇界に留まらず総合文化センターとして、数多くの文化人を育成しました。1918年(大正7年)11月5日に島村抱月がスペイン風邪で逝去し、1919年(大正8年)1月5日に松井須磨子が後追い心中で逝去し、芸術座は5年半で解散しました。
1914年(大正3年)3月26日に帝国劇場で初演した舞台『復活』が大ヒットし、カチューシャ役の松井須磨子が歌唱する劇中歌『カチューシャの唄』は日本初の流行歌として一世を風靡しました。翌年の舞台『その前夜』の劇中歌『ゴンドラの唄』は、黒澤明監督の映画『生きる』の主題歌にも起用され、大正ロマンの代表曲として今日も愛されています。又、神楽坂に劇団本部兼小劇場として『芸術倶楽部』を建設し、演劇界に留まらず総合文化センターとして、数多くの文化人を育成しました。1918年(大正7年)11月5日に島村抱月がスペイン風邪で逝去し、1919年(大正8年)1月5日に松井須磨子が後追い心中で逝去し、芸術座は5年半で解散しました。
・芸術倶楽部(旧字:藝術倶楽部)
初代水谷八重子と小林一三
現在のシアタークリエ(旧芸術座)
1924年(大正13年)に芸術座の理事を務めた水谷筑紫が、義妹であり芸術座で子役を務めた初代水谷八重子を育成する目的で、再び芸術座という名称で劇団を興します(第二次芸術座)。初代水谷八重子の芸術座は、1934年(昭和9年)の東京宝塚劇場開業時から、阪急東宝グループ創業者・小林一三に招かれ、毎年宝塚中劇場で公演を行っていました。残念ながらこちらも戦時中に解散となりましたが、小林一三の最晩年1956年(昭和31年)に水谷八重子と面会した際に、新劇場の名称として『芸術座』が復活することとなったのです。そして、小林一三の想いを継承した菊田一夫によって1957年(昭和32年)に芸術座は開館し、現在はシアタークリエとして愛されています。
カチューシャの唄の日
「カチューシャの唄の日」は、日本近代演劇の父・島村抱月と日本初の歌う女優・松井須磨子が主宰した劇団・芸術座が帝国劇場で『復活』(原作:レフ・トルストイ、脚色:アンリ・バタイユ、再脚色/演出:島村抱月)を初演した1914年(大正3年)3月26日を記念して制定された記念日です。『復活』の劇中歌で、日本初の流行歌として大ヒットした『カチューシャの唄』が初めて舞台で歌唱された日でもあり、毎年3月26日は「カチューシャの唄の日」と呼ばれ親しまれています。一般社団法人松井須磨子協会の登録記念日(日本記念日協会認定)となっています。